2011年 04月 30日
希望の道
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まだ少年の頃の僕は…
毎日のように家の前の海で魚釣りをしていた
一向に動かぬウキを見つめて…2時間
まるで「骨の標本」になるまでキレイに魚を食べてくれる父を想い浮かべて
堤防に腰かけたままの…そんな時間はゆるやかだった
時は過ぎ…今思えば
上京後間もなく「かぐや姫」として実にラッキーなスタートを切れたし
充実した時の風を受けて…その都度いい結果を残せたとは思うが
目まぐるしく変わるそんな日々の生活の中で
いつしか…僅か1時間の暇な時を持て余すような自分がいた
30代は…速過ぎる時の流れを達観しながら自分も流されていたのだなぁと思う
40を過ぎて始めた渓流でのフライ・フィッシングは
大人と子供…そんな二人の自分が出会ういい機会でもあった
一度縮まった時間を少しずつ緩ませることが出来る…そんな気がした
釣りに行く時…
実はそんなにウキウキして出かける訳でもない
クリエイティヴな作業をしていると「煮つまる」のはよくあることで
頭でっかちの自分を自然と対峙させることでバランスが取れると信じているから
半ば強引に自分(の脳)をアウトドアに連れ出さなければ…とその時思う
そんな時…川に立てる時間は限られたものだし
大抵一人で行くのでほとんどが春先の近距離のフィールドになってしまう
そこで東名高速を走る度に…数え切れないほど行き交うトラックに出会い
そんな台数の物資に支えられたこの国の経済・流通の豊かさを痛感する
やはり日本は稀に見る文明国であり
お金さえ払えばあらゆるものが簡単に手に入り
お腹がすけば…適当に見つけた店で迷うほどのメニューに巡り合える
都会では五分刻みの電車の運行は当たり前のことで
それでも急行に乗り遅れたりするとイライラするストレスまで感じてしまう
今では24時間営業のコンビニも当り前のようにある
生活が文字どおり「便利」になることと…こういう店の普及度は今後も比例して行くに違いない
そうは言っても…人口の少ない地域ではその店もなかなか見つからないことだってある
ヤマメやイワナが棲む川の上流域の村などは正にそのような場所になる
TVの釣りのロケともなると深く山に入り森の中で終日過ごすこともあるので
食糧や物資が簡単に手に入るそんな店の存在は本当に有り難い限りなのだが
ずっと都会にいれば特にそう感じることもないのだろうと…自分でも思う
日暮れ時…そんな山の中から下りてくると
よくある普通の小さな町の夜景や信号機でさえ「大都会」に戻ったかのように煌びやかに見え
特に煌々とした『コンビニの明かり』は…それこそ『まるで小さな発電所みたいに』眩しい
その山にしても…今の日本には人工林のなんと多いことかと思う
もはや目に触れるほとんどの山肌にスギ・ヒノキが植林された…そんな景色ばかり
この圧倒的な不自然さを目の当たりにすれば近年「花粉症」がはびこるのも当然ではないだろうか?
70年代に急速に広まった事業もその後の不景気で手入れされていない林が残ったままだという
水分が多く建築材には向かないブナなどの代わりに
経済効果の高い木材に植え替え管理するのは…ある程度なら文明人の権利かも知れないが
大規模な河川改修などと共に…人はそこまで自然を思うがままにしてもいいのか?出来るのか?
人類が大自然をコントロールするどころか…その底力の前には如何に無力であるかは
今回の未曾有の大震災で誰もが感じていることだろう
70年代からと言えば…原発もそう
60年代に設計されてあの時代僕らがずっと恩恵を受けて来たものが今大変な事になっている
ここに来て…ただ今回の「誰々云々の」対応や対策が悪いだけの問題ではないことは明白だ
例えば400年に一度…いつどこで起きるかも分からない大地震や大津波の周期の中で
たまたま近年の40年間は幸運にも大事には至らずに過ごせただけではないだろうか?
言わばこれまでの平和は10分の1の安全の中で恐る恐る享受して来ただけなのではないだろうか?
その間あまりにも合理性や利便性を突きつめた結果…
前述の1本の電車の乗り遅れやケータイの電波の微弱さが不満になったり
メールで処理出来る能力が進歩した分…一日の内に忙しさを沢山抱えてしまったり
現代の生活はかなり息苦しい世の中になってしまった気がしてならない
何かが変わろうとしている今…
一人一人が勇気を持って自分らしく暮らせる世になるように自ら変えていかなければと思う
便利であるがゆえ…暮らしのテンプレート(ひな型)に頼り過ぎれば
枠からはみ出す楽しみや独自性の輝きは失われる一方になってしまう
かつて豊かな自然と共生してきた日本人としての「品性」を失くさない限り希望の道はある
物に溢れた時代が「地球にやさしく」することをわざわざ難しくしてしまっているのなら
目に見えないものの力=自然を畏れ敬うことが何よりも大切なのではと思う
shoyan
毎日のように家の前の海で魚釣りをしていた
一向に動かぬウキを見つめて…2時間
まるで「骨の標本」になるまでキレイに魚を食べてくれる父を想い浮かべて
堤防に腰かけたままの…そんな時間はゆるやかだった
時は過ぎ…今思えば
上京後間もなく「かぐや姫」として実にラッキーなスタートを切れたし
充実した時の風を受けて…その都度いい結果を残せたとは思うが
目まぐるしく変わるそんな日々の生活の中で
いつしか…僅か1時間の暇な時を持て余すような自分がいた
30代は…速過ぎる時の流れを達観しながら自分も流されていたのだなぁと思う
40を過ぎて始めた渓流でのフライ・フィッシングは
大人と子供…そんな二人の自分が出会ういい機会でもあった
一度縮まった時間を少しずつ緩ませることが出来る…そんな気がした
釣りに行く時…
実はそんなにウキウキして出かける訳でもない
クリエイティヴな作業をしていると「煮つまる」のはよくあることで
頭でっかちの自分を自然と対峙させることでバランスが取れると信じているから
半ば強引に自分(の脳)をアウトドアに連れ出さなければ…とその時思う
そんな時…川に立てる時間は限られたものだし
大抵一人で行くのでほとんどが春先の近距離のフィールドになってしまう
そこで東名高速を走る度に…数え切れないほど行き交うトラックに出会い
そんな台数の物資に支えられたこの国の経済・流通の豊かさを痛感する
やはり日本は稀に見る文明国であり
お金さえ払えばあらゆるものが簡単に手に入り
お腹がすけば…適当に見つけた店で迷うほどのメニューに巡り合える
都会では五分刻みの電車の運行は当たり前のことで
それでも急行に乗り遅れたりするとイライラするストレスまで感じてしまう
今では24時間営業のコンビニも当り前のようにある
生活が文字どおり「便利」になることと…こういう店の普及度は今後も比例して行くに違いない
そうは言っても…人口の少ない地域ではその店もなかなか見つからないことだってある
ヤマメやイワナが棲む川の上流域の村などは正にそのような場所になる
TVの釣りのロケともなると深く山に入り森の中で終日過ごすこともあるので
食糧や物資が簡単に手に入るそんな店の存在は本当に有り難い限りなのだが
ずっと都会にいれば特にそう感じることもないのだろうと…自分でも思う
日暮れ時…そんな山の中から下りてくると
よくある普通の小さな町の夜景や信号機でさえ「大都会」に戻ったかのように煌びやかに見え
特に煌々とした『コンビニの明かり』は…それこそ『まるで小さな発電所みたいに』眩しい
その山にしても…今の日本には人工林のなんと多いことかと思う
もはや目に触れるほとんどの山肌にスギ・ヒノキが植林された…そんな景色ばかり
この圧倒的な不自然さを目の当たりにすれば近年「花粉症」がはびこるのも当然ではないだろうか?
70年代に急速に広まった事業もその後の不景気で手入れされていない林が残ったままだという
水分が多く建築材には向かないブナなどの代わりに
経済効果の高い木材に植え替え管理するのは…ある程度なら文明人の権利かも知れないが
大規模な河川改修などと共に…人はそこまで自然を思うがままにしてもいいのか?出来るのか?
人類が大自然をコントロールするどころか…その底力の前には如何に無力であるかは
今回の未曾有の大震災で誰もが感じていることだろう
70年代からと言えば…原発もそう
60年代に設計されてあの時代僕らがずっと恩恵を受けて来たものが今大変な事になっている
ここに来て…ただ今回の「誰々云々の」対応や対策が悪いだけの問題ではないことは明白だ
例えば400年に一度…いつどこで起きるかも分からない大地震や大津波の周期の中で
たまたま近年の40年間は幸運にも大事には至らずに過ごせただけではないだろうか?
言わばこれまでの平和は10分の1の安全の中で恐る恐る享受して来ただけなのではないだろうか?
その間あまりにも合理性や利便性を突きつめた結果…
前述の1本の電車の乗り遅れやケータイの電波の微弱さが不満になったり
メールで処理出来る能力が進歩した分…一日の内に忙しさを沢山抱えてしまったり
現代の生活はかなり息苦しい世の中になってしまった気がしてならない
何かが変わろうとしている今…
一人一人が勇気を持って自分らしく暮らせる世になるように自ら変えていかなければと思う
便利であるがゆえ…暮らしのテンプレート(ひな型)に頼り過ぎれば
枠からはみ出す楽しみや独自性の輝きは失われる一方になってしまう
かつて豊かな自然と共生してきた日本人としての「品性」を失くさない限り希望の道はある
物に溢れた時代が「地球にやさしく」することをわざわざ難しくしてしまっているのなら
目に見えないものの力=自然を畏れ敬うことが何よりも大切なのではと思う
shoyan
by ise-shozo
| 2011-04-30 23:49